ふじゆう物語館

短編小説やシュートストーリーを掲載します。

天使の梯子

 突然の大雨に、私は走り出した。天気予報では、降水確率は三十パーセントって言っていたのに。傘を持たずに家を出てきてしまったのが間違いだった。髪の毛が濡れて、走る度に髪が頬に纏わりつくのが不快だ。
 

 手を額に当てて、手庇で視界を確保する。しばらく走っていると、前方に緑色の庇が飛び出た、店舗を発見した。少しの間、あそこで雨宿りをさせてもらおう。何屋さんかは分からないけれど、店は閉まっていて、気持ちが楽だった。カバンからハンドタオルを取り出し、少しでも雨を拭き取ろうとした時、私の隣に滑り込む人がいた。私はタオルを持った手の動きを止めた。
 

 赤いランドセルを背負った少女が、息を切らし黄色い帽子を取った。雨か汗か分からないが、彼女の髪の毛も張り付いている。少女は、私を見上げ、小さくお辞儀をした。
「少しの間、雨宿りをさせて下さい」
 雨の影響で気温が下がり、少女は白い息を吐いた。体より大きなランドセルが揺れ、少女が潰されてしまわないか、少し心配になった。別に私の許可なんか必要ないのだけれど、律儀で礼儀正しい子だ。きっと、両親の教育の賜物なのだろう。

 

「一緒に、雨宿りしようね」
 私は笑みを浮かべ、少女と視線を合わせた。そして、手に持ったタオルで、少女の頭や顔を拭いてあげた。化粧をしていない少女の顔を遠慮なく拭き、少し羨ましいと思った。この雨なのだから、きっと誰も私のメイクの崩れ具合なんか気にしないだろうけれど、それでも大人としての体裁を気にしてしまう。

 

「ありがとう。お姉さん」
 少女の屈託のない笑顔に、冷えた体がほんのり暖められた気がした。私が黒い空に視線を向けると、つられるように少女も顔を上げた。
「雨、止むかなあ?」
「早く止んで欲しいね」
 二人で空を見上げ、そんな会話を繰り返していた。
 しばらくすると、雨粒が徐々に小さくなり、黒くて分厚い雲が去っていった。新たにやってきた薄い雲がプツリと切れて、その隙間から光が差した。私達は、その空から降る光を眺めていると、自然に笑みが零れてきた。

 

「雨、止んでよかったね。これで帰れるよ」
 私は、雲間を眺めながら、少し声を弾ませた。しかし、少女からの返答がない。不思議に思い、顔を隣に向ける。すると、少女は顔の前で手を合わせ、目を閉じている。まるで、何かを祈っているように見えた。私は、無言のまま少女の姿を眺めていた。数秒後、少女は目を開いて、空から伸びる一本の光を愛おしそうに見つめている。

 

「何をお願いしたの?」
 私が少女に尋ねると、彼女は私の方を向いて、またあの屈託のない笑顔を見せてくれた。
「『パパがね。迷子になりませんように』って、お願いしたの。パパはね、方向音痴だったから、心配なの」
「パパはどこかに、出かけているの?」
 出張か何かで、留守にしているのだろうか? それにしても、こんなにも小さな娘に心配されるほどの方向音痴とは、いったいどれほどのものなのだろうか?

 

「お空にいるの!」
 少女は、明るくなってきた空に、か細い指を向けた。パイロットでもしているのだろうか? それで、方向音痴とか、大丈夫なのだろうか? 私が訪ねようと微かに、上下の唇を離した時に、少女は嬉しそうに口を開いた。
「お空から真っ直ぐに伸びる光を『天使の梯子』っていうの。それでね、いつもはお空にいるパパが、梯子から降りてくるんだって。それでねそれでね、ママとわたしが元気にしてるのか、見にくるんだって。それからね、また梯子を上ってお空に帰っていくんだって。ママが教えてくれたの」
 少女は自慢話をするように、少し興奮気味に早口で話した。私は唇を真横に引いた。無意識の内に眉が下がってしまったことに気づき、私は口角をキュッと釣り上げた。

 

「そうなんだ。じゃあ、私もお願いしようかな?」
 私はしゃがんだまま両手を顔の前で合わせた。隣からランドセルが動いた音が聞こえ、少女も同じように手を合わせているようだ。
『チコ。迷子にならないように、気を付けて帰るんだよ。またいつでも遊びに来てね』
 私は、心の中で呟いた。先日、長年可愛がっていた愛犬のチコが、病気で亡くなった。悲しくて悲しくて堪らなかったけれど、今ではだいぶ立ち直った。学校にも通えるようになった。もしも、この少女が言うように、チコが私の様子を見に来てくれていたなら、あまり情けない姿は見せられない。私のことが心配で、チコが帰りそびれてしまっては大変だ。

 

 別れの挨拶を交わし、少女は飛び跳ねるように、水溜まりが点在する道を駆けていく。私は少女の姿が見えなくなるまで眺め、ゆっくりと濡れた道を踏んでいく。少し顔を上げて、前方の空を眺める。至る所から、光の筋が降り注いでいる。
 一番近くにある光の筋を眺めていると、着地点はどこなのか気になった。空を見上げながら、右左折を繰り返した。赤い屋根の家をグルリと回り込んだ所で、光の筋が道路の真ん中を明るく照らしていた。私は思わず立ち止まり、息を飲んだ。

 

「チコ!」
 私は、叫び声を上げて、いつの間にか走り出していた。まるで、スポットライトで照らされたように、光の中心で真っ白い毛並みをしたチコが震えている。チコは、怯えたようにその場でうずくまり、おとなしく私に抱かれた。フワフワの毛に顔を埋めて、とても心地よかった。とても、いい匂いがする。
 もちろん、この子はチコではない。そんなことは、分かっている。それでも、涙が溢れてくる。

 

「お姉ちゃん! お姉ちゃん! その子を離さないでね!」
 突然、女の子の悲痛な叫びが聞こえてきた。私は、この子を抱えたまま振り返ると、小さな女の子が必死で駆け寄ってきた。私は、屈んで少女の到着を待った。ああ、この子の飼い主だな。そう思うと、少し切ない気持ちになった。先ほど出会った少女と同じくらいの年だろうか。
 息を切らして私の前に辿り着いた少女は、私ごと抱き着いてきた。

 

「ココ! ココ! 良かったあ!」
 少女は、真っ白な毛に顔を埋め、心底安堵した声を出した。
なるほど、この子はココちゃんと言うのか。おしいな。私はクスリと笑った。
「お姉ちゃん! ありがとう! ココが急に走り出しちゃって、追いかけたけど、追いつけなくて・・・ありがとう」
 少女は、真っ直ぐに私を見つめ、大きな瞳からボロボロと涙を零した。雨が上がって、少女が散歩に連れて行きたかったのか、ココちゃんがねだったのか分からない。少女の手には、ピンク色のリードが握られている。ココちゃんが逃げ出してしまい、とても怖かっただろう。不安だっただろう。短いコンパスでは、必死に追いかけても追いつくのは不可能だ。そもそも大人でも難しい。
 

 大切な愛犬を失う恐怖は、私はよく分かる。この少女の悲しみも、苦しみも。ココちゃんを追いかけていた少女の気持ちを思うと胸が苦しくなった。
「今度は、離しちゃダメだよ」
 私が手を差し出すと、少女は大きく頷き、握りしめていたピンクのリードを渡した。ココちゃんの首にリードをしっかりとつけた。そして、少女の手に、リードを手渡す。ゆっくりと立ち上がって少女に笑みを見せたが、彼女は不安そうな表情を浮かべた。まるで、置いて行かれる子犬のように、瞳には涙がいっぱい溜まっている。
 私は、もう一度しゃがみ、少女と目線を合わせた。

 

「お姉ちゃんも一緒に、ココちゃんの散歩をしてもいいかな?」
 少女の顔はパっと輝いて、嬉しそうに返事をした。初めてみる少女の笑みに、胸の奥が温かくなって、自然と頬が緩んだ。すると少女が、私にリードを渡し、空いている手を握った。
 少女のペースに合わせ、濡れた道を歩いていく。ココちゃんには、少し物足りないかもしれない。空を見上げると、青空が広がり、天使の梯子はなくなっていた。
 チコは、ちゃんと帰れたかな? 私は元気でやってるよ。
<完>